浮世絵は、その色彩の鮮やかさ、構図のダイナミックさ、モチーフの身近さにより、世界的に高く評価されている日本の風俗画です。江戸時代後期に浮世絵界で名を馳せたのが、「栄松斎長喜」(えいしょうさいちょうき)。彼は有名な「喜多川歌麿」(きたがわうたまろ)、「東洲斎写楽」(とうしゅうさいしゃらく)ともかかわりがありました。栄松斎長喜の生涯と関連する人物、作品の特徴などについて詳しくご紹介します。
栄松斎長喜
栄松斎長喜は、江戸時代中期である1781~1808年(安永10年/天明元年~文化5年)頃に活躍した浮世絵師です。生没年は不明であり、頻繁に名を変えていました。
「長喜」から始まり、1795~1796年(寛政7~8年)頃に「子興」(しこう)と改名したのち、1801年(寛政13年/享和元年)頃に長喜へ戻したと伝わっています。
栄松斎長喜は「鳥山石燕」(とりやませきえん)に弟子入りし、書物の挿絵にも携わっていました。江戸時代の版元である「蔦屋重三郎」(つたやじゅうざぶろう)から絵の才能を見込まれ、寛政中期には蔦屋重三郎を版元に、数多くの美人画を発表しています。
栄松斎長喜は喜多川歌麿と同門であったため、作風にも喜多川歌麿の影響が強くみられるのが特徴です。また栄松斎長喜は、謎に満ちた東洲斎写楽を最もよく知る人物として知られており、写楽の謎を解くキーパーソンではないかとも考えられています。
1716年(正徳6年/享保元年)頃に、漆と顔料を配合して描く「漆絵」(うるしえ)、1745年(延享2年)頃に色別に色版を彫って墨摺版に重ねていく「紅摺絵」(べにずりえ)が誕生。のちの1765年(明和2年)に、多色摺の「錦絵」(にしきえ)が登場し、浮世絵の世界に改革をもたらしたのです。
錦絵は当初、肉筆画のみで描かれましたが、木版画の技術が発達すると量産されるようになりました。当初は「墨摺絵」(すみずりえ)と呼ばれる黒色1色を使った版画でしたが、のちに紅が加わって「紅絵」(べにえ)が誕生します。しかし、いずれも手作業のため制作には時間がかかり、仕上がりの品質を均一化することが困難でした。
錦絵は単なる多色刷りではなく、複数の職人が携わるコラボ作品。現在の出版業者にあたる「版元」が浮世絵の企画を行い、「絵師」(浮世絵師)が版元の意向に沿って下絵を作成し、「彫師」が下絵を造形して土台となる版木を完成させます。
単色刷りを行ったあと、再度絵師が配色を決め、彫師が色用の版木を作成。最後に「摺師」が、絵の具の色や面積を考慮して刷る順番を決め、紙に刷り上げて作品が完成するという大掛かりな作業です。
職人達の技術と才能を集結させた錦絵は、今までの浮世絵とは異なり、色とりどりで迫力があったため、瞬く間に人々を魅了しました。栄松斎長喜は、1789年(天明9年/寛政元年)以降に作画活動をしていたと言われており、この時期に多くの錦絵の作品を描いています。
鳥山石燕作「図画百鬼夜行」
鳥山石燕は、江戸時代中期の浮世絵師で、妖怪画を多く手掛け、拭きぼかしの技法を考案したうえ、俳人としても活躍した人物です。
本姓は「佐野」(さの)、諱(いみな:実名)は「豊房」(とよふさ)と言い、字(あざな:実名以外に呼びならわされた名)は不明。
別号として「船月堂」、「零陵洞」、「玉樹軒」、「月窓」と称していたと伝わっています。
鳥山石燕は、狩野派門人として「狩野周信」(かのうちかのぶ)、「玉燕」(ぎょくえん)のもとで絵を学び、和歌や連歌を詠む職業である俳諧師(はいかいし)の「東流斎燕志」(とうりゅうさいえんし)に師事。
また、多くの絵師や、江戸時代中期に刊行された草双紙である黄表紙の作者も育成しています。栄松斎長喜の他、喜多川歌麿、「恋川春町」(こいかわはるまち)も鳥山石燕の門下生でした。
鳥山石燕は、妖怪の絵を多く残しています。1776年(安永5年)に著した「画図百鬼夜行」(がずひゃっきやこう/がずひゃっきやぎょう)で、妖怪絵師としての地位を確立。
その後、1779年(安永8年)に「今昔画図続百鬼」(こんじゃくがずぞくひゃっき)を世に出しました。1781年(安永10年)には「今昔百鬼拾遺」(こんじゃくひゃっきしゅうい)を、1784年(天明4年)「百器徒然袋」(ひゃっきつれづれぶくろ)を刊行。これらすべての作品は、3部構成です。
鳥山石燕が描く妖怪は、微笑みを誘うような魅力があり、この作風は後世に活躍する画家達にも大きな影響を与えました。現代の漫画やアニメーションでも引用されたり再解釈されたりして、人気を博しています。
喜多川歌麿は、江戸時代後期を代表する浮世絵師で、出生地については栃木、川越、京都など諸説ありますが、江戸という説が有力です。
美人画を得意とした浮世絵師として有名ですが、もともとの創作の主軸は狂歌で、狂歌絵本の「画本虫撰」(がほんむしえらび)、「百千鳥狂歌合」(ももちどりきょうかあわせ)、「潮干のつと」などで高い評価を得ました。
本姓は「北川」、幼名は「市太郎」、のちに「勇助」(もしくは勇記)と改名。烏山石燕の門下生となり、先輩らの画風を学びます。
浮世絵師として本格的にスタートしたのは、1775年(安永4年)に刊行された歌舞伎の「四十八手恋所訳」(しじゅうはってこいのしょわけ)下巻の表紙絵。この頃の喜多川歌麿は勝川派の影響を受けていたため、当時の美人画には「鳥居清長」(とりいきよなが)の作風に似通ったところがありました。
やがて作風に変化が見られるようになり、蔦屋重三郎のもとで刊行した狂歌絵本「画本虫撰」、「百千鳥狂歌合」からは、独自の繊細な筆致で花鳥、虫類を描くようになります。作風を変えてから、喜多川歌麿の評価は高まっていったのです。
その後、「ビードロを吹く娘」(別名:ポッピンを吹く女)や「当時三美人」など、女性の半身像を大きく描く大首絵を発表。「雲母摺」(きらずり)という雲母の粉末を薄い膠液(にかわえき)に混ぜ、版画に刷り込む技法を背景に用いて、身分の違う女性達を表情豊かに描いた画風が高く評価され、大きな名声を得ました。
しかし、江戸幕府の風紀取り締まりが厳しくなり、次第に浮世絵の出版が難化。喜多川歌麿は規制を上手く逃れ作品を発表し続けますが、ついに1804年(享和4年/文化元年)に捕縛されてしまいました。
「豊臣秀吉」が行う醍醐の花見を画題にして描いた「太閤五妻洛東遊観之図」(たいこうごさいらくとうゆうかんのず)という作品が、江戸幕府から咎められたと言われています。
手鎖50日(自宅で50日間手錠をはめられ続ける刑罰)の処罰を受けた心身の苦痛から、喜多川歌麿は病気に。創作活動にも衰えが見られ、そのまま1806年(文化3年)に死去しました。没するまで喜多川歌麿の人気は衰えず、最後まで依頼が殺到していたとも言われます。
蔦屋重三郎
蔦屋重三郎は、江戸後期に江戸で活躍した版元で、現在で言う出版業者。浮世絵師の企画、刊行、販売までを行っていました。
蔦屋重三郎は通称であり、本名は「喜多川珂理」(きたがわからまる)。他にも、狂歌名に「蔦唐丸」(つたからまる)と名乗っていました。
屋号は「蔦屋」または「耕書堂」、商標は富士山形に蔦の葉です。
1772~1781年(明和9年/安永元年~安永10年)頃に、吉原の大門に細見屋(さいけんや:遊郭の案内所)を開き、1783年(天明3年)に通油町(とおりあぶらちょう:現在の中央区日本橋大伝馬町)で、地本問屋(じほんどいや)を開業。蔦屋重三郎は、その時代の人々の嗜好に精通し、優れた企画力を持っていました。その才能を活かし、「大田南畝」(おおたなんぽ)、「山東京伝」(さんとうきょうでん)といった狂歌師や戯作者の協力を得て、次々と名作を刊行。蔦屋重三郎が出版した作品は、草双紙、狂歌本類、絵本と幅広く、そのかたわら錦絵の出版にも力を注ぎました。
また、蔦屋重三郎は新人発掘の名人でもあり、栄松斎長喜の他に、「曲亭馬琴」(きょくていばきん)、「十返舎一九」(じっぺんしゃいっく)、喜多川歌麿、東洲斎写楽などの逸材を見出しています。江戸一流の版元として地位を確立した蔦屋重三郎は、江戸幕府が取り組んでいた出版統制の見せしめとなりました。1791年(寛政3年)に出版した山東京伝の「洒落本」(しゃれぼん)が原因で、身代半減の刑を受けています。
東洲斎写楽
栄松斎長喜は東洲斎写楽の影響を強く受け、画風を似せ、自身の作品内に東洲斎写楽のパロディを取り入れていました。
また、栄松斎長喜は東洲斎写楽の正体を知っているかのような発言も残しています。
東洲斎写楽は、江戸時代を代表する浮世絵師で「4大浮世絵師」のひとり。
大首絵と呼ばれる、美女や役者の顔を強調して大きく描いた浮世絵を得意としました。大胆なデフォルメと繊細で独特な身体表現が特徴で、歌舞伎役者のブロマイドとも言える役者絵は、歌舞伎の観客の間で人気を博します。
大人気浮世絵師となった東洲斎写楽ですが、本名、生没年、出生地、家族、師匠など、東洲斎写楽に関する情報はほとんどありません。
また、実際に浮世絵師として活躍した期間はたったの10ヵ月。1794~1795年(寛政6~7年)にかけて約150点の作品を制作したのち、突如姿を消したため、現在でも「謎の浮世絵師」と言われています。
東洲斎写楽の正体に関する研究が長年続けられ、現在では東洲斎写楽が能役者の「斎藤十郎兵衛」(さいとうじゅうろべえ)である説も浮上。理由として、イギリスのケンブリッジ大学図書館が所蔵する「増補浮世絵類考」に、「写楽の俗称は斎藤十郎兵衛だと栄松斎長喜が言った」との記述があるからです。
研究により、斎藤十郎兵衛という人物が実在することは確かとなっていますが、東洲斎写楽が斎藤十郎兵衛である決定的な証拠はいまだ見つかっていません。
栄松斎長喜が手掛けた、美人画、大首絵(役者絵)、洒落本(挿絵)、黄表紙(挿絵)について解説します。
美人画は、美しい女性を画題にした作品で、江戸時代前期から人気が出たジャンル。1661~1673年(万治4年/寛文元年~寛文13年)頃から、「寛文美人図」(かんぶんびじんず)という掛け軸形式の風俗画が描かれるようになりました。美しい女性がひとり、中央に配置された構図であり、寛文美人図の影響を受けて浮世絵の美人画が発展したと言われています。
美人画は当時の理想の女性像を具現化した作品であり、描かれた女性は実在する人物ではありません。しかし、次第に遊女や花魁をモデルに描かれるようになり、作品によってはモデルの名前も明かされていました。
のちに美人画は、宣伝ポスターのような役割を果たすようになり、商業目的として美人の看板娘がモデルに起用されることも多くなります。特に、観光スポットや参拝者が訪れる神社にある、水茶屋と呼ばれる休憩所の看板娘を画題にした美人画が多く描かれました。
江戸時代中期になると、江戸幕府は幕藩体制の立て直しを目的とした「寛政の改革」を行い、美人画は風紀を乱すとして自由に刊行できなくなります。
さらに、美人画に記載できる名前は遊女のみとなったため、遊女以外の名前は謎解きの絵で記す「判じ絵」が誕生。その後、判じ絵を使った美人画も禁じられました。
美人画を描いた代表的な浮世絵師のひとりが、喜多川歌麿です。喜多川歌麿は美人画のジャンルのなかに、新たに「美人大首絵」を確立しました。
大首絵はモデルの上半身のみを描いた浮世絵のことで、役者絵によく採用されていた手法。美人大首絵は、美人画と大首絵を組み合わせた作品です。従来の美人画は女性の全身を描くため、細かな表情や仕草を表すことができませんでした。しかし、美人大首絵が確立されたことにより、仕草や表情、感情など、繊細な情感を表現できるようになったのです。
版元の蔦屋重三郎が刊行した喜多川歌麿の美人画の作品には、「婦人相学十躰浮気之相」(ふじんそうがくじゅったいうわきのそう)、「歌撰恋之部」(かせんこいのぶ)が挙げられます。
喜多川歌麿の他にも、「菱川師宣」(ひしかわもろのぶ)、「鈴木春信」(すずきはるのぶ)、「磯田湖龍斎」(いそだこりゅうさい)、「鳥居清長」(とりいきよなが)、「渓斎英泉」(けいさいえいせん)などが美人画を手掛けました。栄松斎長喜も、喜多川歌麿の画風をベースとした個性のある美人画を描いたのです。
「大首絵(役者絵)」は、モデルの上半身のみを描き、顔を主題として描いた作品。浮世絵のジャンルである美人画や役者絵でも、半身像の場合は大首絵に分類されます。
大首絵をひとつのジャンルとして完成させたのは「勝川春章」(かつかわしゅんしょう)、「一筆斎文調」(いっぴつさいぶんちょう)。
最も多く大首絵が描かれたのは、1772~1781年(明和9年/安永元年~10年)頃から浮世絵の終焉期となる明治時代までです。数多くの絵師が大首絵の作品に取り組みました。
また、東洲斎写楽の大首絵も有名です。東洲斎写楽が版元・蔦屋重三郎のもとから華々しくデビューした際に刊行した「三世大谷鬼次の奴江戸兵衛」(さんせいおおたにおにじのやっこえどべえ)にも、役者を描いた28枚の大首絵が含まれています。
東洲斎写楽の大首絵では、手元を丁寧に描いて役者を表現しているのが特徴。例えば、役者の力強さを表現する場合には手が強く結ばれています。女性役の場合は、女性ならではの美しい動きや女性を表す小物が指先に描かれました。
大首絵で成功を収めた浮世絵師としては、喜多川歌麿も外せません。喜多川歌麿は、遊郭であった吉原の高級遊女だけでなく、経験の浅い遊女や街の看板娘なども画題にしました。華やかな花魁道中や宴の様子だけでなく、雑談をしたり手紙を書いたりする遊女達の日常の姿なども描いたのです。
江戸時代中期以降の戯作小説の一種で、遊里(ゆうり:遊郭が集まるエリア)が舞台となっていることが多く、遊里短編小説とも言われています。
洒落本は、一般的に小本と呼ばれる半紙を4つ折りにした小さい書型で、縦約16~17cm、横約11~12cmという、現在の文庫本より少し大きいサイズ。小本よりも大きいサイズは、中本と呼ばれます。
洒落本を増刷する場合は、中本サイズに変更することもありました。なお、中本の大きさは、縦約19cm、横約13cmで現在の新書を少し大きくしたサイズ。ページ数は、1巻1冊で40~50丁(1丁は2ページ)で、シリーズでも1冊読み切りが一般的でした。
洒落本が注目され始めたきっかけは、1728年(享保13年)に出版された「両巴巵言」(りょうはしげん)という作品です。「撃鉦先生」(どらうつせんせい)が文章を書き、鳥居清信が作画した作品で、吉原での情景や遊興について漢文で書いています。
この作品の評判が高かったことから、続けて漢文体の「史林残花」(しりんざんか)、「南花余芳」(なんかよほう)が出版されました。これらの作品は、漢学生が中国の小冊子である艶史(遊女や遊里を紹介した冊子)を真似して刊行。この形式が流行ったため、漢文体だけではなく和文でも出版されるようになります。
1751~1763年(寛延4年/宝暦元年~宝暦13年)頃になると、著名な古典文学や漢籍を面白おかしく記した洒落本が数多く出版。さらに、洒落本の作家で浮世絵師でもある山東京伝の登場により、洒落本は最盛期を迎えます。
しかし、その後の寛政の改革で出版の取り締まりが厳しくなり、山東京伝が手鎖50日の刑になると、洒落本の人気は徐々に下火になっていきました。
黄表紙は草双紙(娯楽本の総称)のひとつで、表紙が黄色だったことがその名の由来。表紙の色によって赤本、黒本、青本などと呼ばれることもあります。草双紙のなかでも、遊女とその客の姿を面白おかしく描いた洒落本の影響を受けた作品には、黄色い表紙が付けられ、黄表紙と言われるようになり、次第に作品の質も向上していきました。
代表的な黄表紙は、謡曲「邯鄲(かんたん)」の翻案であり、1775年(安永4年)に刊行された恋川春町の「金々先生栄花夢」(きんきんせんせいえいがのゆめ)。田舎から栄華を夢見て江戸に来た主人公が、うたた寝をしたわずかな間に大富豪になり、やがて落ちぶれる夢を見て、人生のはかなさと無常を悟り、そのまま田舎に戻るというストーリーです。風刺を交えたこの作品は、大人の絵本文学としての地位を確立しました。
また、山東京伝の「江戸生艶気樺焼」(えどうまれうわきのかばやき)も人気を博した黄表紙のひとつ。主人公は資産家の息子で、女性にちやほやされたいという願望を持っており、お金で雇った遊女に自宅へ押しかけてもらうなど珍奇な行動をしていきます。しかし、その途中で泥棒に財産をすべて奪われ、改心するというストーリーです。この作品は庶民の間で大評判となり、続編も出版されました。
黄表紙に描かれている文章には、絵が付いているのが一般的。黄表紙の挿絵には第一線で活躍する浮世絵師が携わりました。栄松斎長喜をはじめ、喜多川歌麿、鳥居清長、「北尾重政」(きたおしげまさ)、「歌川豊国」(うたがわとよくに)などの名だたる浮世絵師達が、黄表紙の挿絵を描いたのです。
幅広いジャンルや画風にチャレンジしていた栄松斎長喜ですが、活躍したのは1808年(文化5年)頃まで。風景画が流行し始めたのが1816年(文化13年)以降であるため、栄松斎長喜は風景画を手掛けていないと考えられます。
なお、風景画の主な題材は、特定の場所とそこに暮らす人々を描く「名所絵」(めいしょえ)と、旅行で見た風景や風俗を表現する「道中絵」(どうちゅうえ)です。
風景画は、「奥村政信」(おくむらまさのぶ)が提唱したジャンル。遠近法を用いた浮世絵がきっかけとなって人気を博します。特に、「十返舎一九」(じっぺんしゃいっく)の「東海道中膝栗毛」(とうかいどうちゅうひざくりげ)などの風景画が評判になりました。
さらに、浮世絵師の「葛飾北斎」(かつしかほくさい)、「歌川広重」(うたがわひろしげ)などによる、各地の名所を描いた作品が高く評価され、風景画の地位が確立。
葛飾北斎の風景画でよく知られているのは、1831~1834年(天保2~5年)に手掛けた名所絵「富嶽三十六景」(ふがくさんじゅうろっけい)です。歌川広重は、1831年(天保2年)の「東都名所」、1834年(天保5年)の「東海道五十三次」などの風景画が高い人気を得ていました。
1816年(文化13年)には、大衆の間で伊勢参りや旅行がブームとなり、風景画はガイドブックとして、より多く描かれるようになります。
栄松斎長喜が描いた浮世絵の特徴は、女性達が自然で寛いだ表情をしている点。繊細な筆使いで、女性の美しさと様々な仕草を表現しました。美人画の画題となる女性を生き生きと表現できた点も、栄松斎長喜が浮世絵師として人気を博した理由のひとつです。
東洲斎写楽から強い影響を受けた栄松斎長喜は、写楽の作風に似た作品を描きました。そのため、一時期は栄松斎長喜が写楽ではないかとも考えられていたのです。
しかし、2人が同一人物である証拠は今でも見つかっておらず、現在は栄松斎長喜と東洲斎写楽は別人とされています。
栄松斎長喜の作品によくみられるのが、美人画などに用いられる黒雲母摺(くろきらずり)という技法。鉱物である雲母(うんも)の粉末を混ぜた顔料を使う技法で、浮世絵の背景などに使っています。雲母が光に反射してキラキラと光るため、人物を引き立てる効果があったのです。
1794年(寛政6年)頃に栄松斎長喜が描いた「四季の美人・初日の出」という作品では、まだ暗い明け方の空に黒雲母摺を施しました。
栄松斎長喜の人物画では、全身像、大首絵などの構図を採用。美人画の大首絵で多いのは、1~3人の女性が寄り添うような構図です。
なお、東洲斎写楽の大首絵の構図で多く見られたのは、役者が2人並んでいる、もしくは向かい合っている「二人絵」。二人絵の構図は以前からありましたが、東洲斎写楽が描く二人絵は、相反する役者を対比させるように描いているのが特徴です。
栄松斎長喜の群像絵では、3枚でひとつの絵となる「座敷万歳」(ざしきまんざい)が挙げられます。座敷遊びをする貴族を中心に、多数の女性達が控えている様子を描写。また、美人画の全身像は、長身ですらりとした女性を描くことが一般的で、あまり動きを出さず、小物を持たせる程度に留めていました。
なお、東洲斎写楽は1794年(寛政6年)頃から全身画の作画を開始。それまではほぼ大首絵のみを描いていましたが、この時期に大判の雲母摺である二人立ちの役者全身像7枚と、座元からの挨拶を描いた「楽屋頭取口上の図」1枚、「細絵」30枚を制作しています。
いくつか作品名を挙げましたが、栄松斎長喜の代表的な作品はそれだけではありません。ここでは5つの作品を見ていきましょう。
「団扇を持った若い女性」は、アメリカのメトロポリタン美術館に所蔵されている美人画です。モデルには、「寛政の三美人」のひとりである「高島おひさ」を起用したと考えられています。女性が持つ団扇に写楽の大首絵が描かれているのも特徴的。なお、喜多川歌麿も高島おひさをモデルとした作品を描いています。
栄松斎長喜 作「四季の美人・初日の出」
「四季の美人・初日の出」は、1794年(寛政6年)頃に、版元の蔦屋重三郎から出版された作品で、「東京国立博物館」(東京都台東区)に所蔵。
雲母摺りの美人図の4点のうちの1枚で、本作品に描かれている手水鉢の上には福寿草の鉢があることから、季節は正月と考えられています。
まだ朝日が出始めたばかりの夜明けに、勝山髷(かつやままげ)に結った美人が佇む風景を描いた絵です。間着の襟元を引き合わせる仕草で、冬の朝の厳しい寒さを精緻に表現しました。
女性は喜多川歌麿風で描かれており、喜多川歌麿の影響を受けていたことを表しています。
この顔は、面長ですっと鼻筋が通り、切れ長の目という特徴を持った「瓜実顔」(うりざねがお)と呼ばれるものです。
「版画井筒中居かん芸子あふきやふせや図」は、同じく東京国立博物館に展示されている作品で、上方風俗の芸子と仲居の2人を描いた七分身像の雲母摺シリーズのうちの1点。
女性のやわらかな表情や粋な装い、胸元に置いた白い手から、当時の女性美がうかがえます。また、京都や大坂で若い娘が取り入れた「おしどり」という髪型で、大坂の芸子であることを表現しているのも特徴的です。
栄松斎長喜 作「雪中秋色女」
「雪中秋色女」は、降りしきる雪のなか、蛇の目傘を手にする若い娘と髭面(ひげづら)の男が描かれた作品。
モデルは、元禄四俳女のひとりである「秋色女」(しゅうしきじょ)とその父親と言われています。
本作は、秋色女と父の絆を描いた一作。秋色女は、詠んだ句を親王に気に入られ、屋敷へと招かれました。
しかし、駕籠に乗って家へ帰る途中、同行していた父親が帰路を歩いているのを見て、秋色女は自分が駕籠から降りて、かわりに父を乗せてあげようと思い立ちます。
そこで、秋色女は父をかごに乗せたあと、父が身に着けていた粗末な笠と合羽を羽織り、家へと歩いて帰ったのです。
「蛍狩」は、菖蒲の花が咲く水辺で蛍狩を楽しむ女性と子どもを描いた作品。女性は栄松斎長喜が得意とする面長美人で、蛍を追う子どもを見ながら優しく微笑んでいます。暗闇で飛び回る蛍の背景に黒雲母摺を使い、幻想的な雰囲気を醸し出した作品です。
【国立国会図書館ウェブサイトより】
- 鳥山石燕「図画百鬼夜行」
【東京国立博物館「研究情報アーカイブズ」より】
- 栄松斎長喜「四季の美人・初日の出」
- 栄松斎長喜「雪中秋色女」