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みずのとしかた さく「きょうどうりっしのもとい さんじょうさねとみ」 水野年方 作「教導立志基 三条実美」 /ホームメイト

本武将浮世絵の画面右側、刀剣を腰に帯びて黒い衣冠(いかん)を身にまとう人物は、幕末から明治時代前期にかけて公卿(くぎょう:国政を担う高位の貴族)・政治家として活躍した「三条実美」(さんじょうさねとみ)です。
「安政の大獄」(あんせいのたいごく)で謹慎処分を受けたのちに亡くなった父「三条実万」(さんじょうさねつむ)の遺志を継ぎ、急進的な「尊王攘夷派/尊皇攘夷派」(そんのうじょういは)公卿の指導者として政治運動を展開。「岩倉具視」(いわくらともみ)をはじめとする「公武合体派」(こうぶがったいは)の公卿を弾劾し、排斥運動を展開していました。
しかし、1863年9月30日(文久3年8月18日)に起こった「八月十八日の政変」によって公武合体派が優勢になると、三条実美を含む尊王攘夷派の公家7名が京都を脱出。連携していた長州藩(現在の山口県萩市)へと落ち延びます。本武将浮世絵の舞台となっているのが、このいわゆる「七卿落ち」(しちきょうおち)において、三条実美らが京都を去る前に善後策を話し合おうと集結した「妙法院」(みょうほういん:京都市東山区)です。画面左側で庭に座して血気に逸る(はやる)諸士は、七卿落ちに付き添う長州藩士達。縁側に立つ三条実美が彼らを諭す様子が描かれ、松の木の後方に輝く大きな月からは、三条実美達の無念の思いが感じられます。
「教導立志基」(きょうどうりっしのもとい)は、1885年(明治18年)頃から5、6年に亘って刊行された、浮世絵師7名の合作による歴史教訓の揃物(そろいもの:シリーズ物のこと)です。本武将浮世絵の制作者「水野年方」(みずのとしかた)は1879年(明治12年)、数えで14歳の頃に「月岡芳年」(つきおかよしとし)に入門。人物画や風景画を得意とし、自身の門下からは「鏑木清方」(かぶらぎきよかた)や「池田輝方」(いけだてるかた)など、美人画の名手を世に送り出しました。
■衣冠と共に佩用された刀剣とは
宮中における公卿の勤務服は、本武将浮世絵で三条実美が着用しているような衣冠でしたが、この衣冠と共に佩用される刀剣は「野太刀」(のだち)と呼ばれています。この名称は天皇が野外へ行幸される際、その警護に帯用していたことが由来。また、衛府(えふ:古代、皇居の警備などに当たった役所)の役人が常に佩用していた刀剣でもあったため、「衛府太刀」(えふのたち)とも呼ばれていました。
