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みずのとしかた さく「きょうどうりっしのもとい あらいはくせき」 水野年方 作「教導立志基 新井白石」 /ホームメイト

本武将浮世絵の画面右側で刀剣を腰に差し、門の外側の人物と何やら話をしているのは、江戸時代中期の朱子学者「新井白石」(あらいはくせき:別称・新井君美[あらいきんみ])です。
新井白石はもともと、父「新井正済」(あらいまさなり)が主家である久留里藩(くるりはん:現在の千葉県君津市)の藩主「土屋家」を追放されたために、浪人の身分となっていた人物。ところが1704年(宝永元年)に、朱子学者としての学識を買われて江戸幕府の幕臣に取り立てられ、旗本(はたもと)となります。そして1709年(宝永6年)、「徳川家宣」(とくがわいえのぶ)が同幕府の6代将軍に就任すると、その側近として「正徳の治」(しょうとくのち)と称する政治改革を推し進めました。
本武将浮世絵では新井白石が幕府に召されるに当たり、困窮のために用意できなかった勤めの用具を受け取る様子が描かれています。
「教導立志基」(きょうどうりっしのもとい)は、本武将浮世絵を制作した「水野年方」(みずのとしかた)の他、「小林清親」(こばやしきよちか)や「豊原国周」(とよはらくにちか)など、幕末・明治時代を代表する浮世絵師が参画した教育画の揃物(そろいもの:シリーズ物のこと)です。全部で53枚とされる同揃物では、様々な偉人の逸話を通して、志を強く持つことの重要性が説かれています。
水野年方は10代後半の頃、明治時代の浮世絵の大家(たいか)である「月岡芳年」(つきおかよしとし)に入門。歴史画や美人画などの浮世絵を手掛けた一方で、「岡倉天心」(おかくらてんしん)、「横山大観」(よこやまたいかん)といった日本画界の著名人とも交流を持ち、新しい日本画の創作にも挑戦しました。
■新井白石が看破した「丙子椒林剣」の銘
「四天王寺」(大阪市天王寺区)が所蔵する刀剣に、「聖徳太子」の「大刀」(たち)と伝わる国宝指定の「丙子椒林剣」(へいししょうりんけん)があります。腰元の平地(ひらじ)に金象嵌(きんぞうがん)で施された「丙子椒林」の銘がその号の由来ですが、もともとは、平安時代の歌人「大江匡房」(おおえのまさふさ)により「丙毛槐林」(へいもうかいりん)とされ、「丙毛」は「蘇我馬子」(そがのうまこ)、「槐林」は「大臣」の意であると推測されていました。しかし、江戸時代に入り、新井白石が改めて本大刀を観たところ、「丙子」は作刀された年の干支、「椒林」は作者名であると看破。現在では、この通りに解釈するのが定説となっています。
