「山崎年信」(やまざきとしのぶ)は「月岡芳年」(つきおかよしとし)に師事し、「芳年四天王」(よしとししてんのう:山崎年信、水野年方、右田年英、稲野年恒)のひとりと呼ばれたほど、高い才能を有する浮世絵師です。しかし、若くして認められたせいか、酒に溺れ、不運の人となりました。山崎年信の生涯と代表的な浮世絵について詳しくご紹介します。
山崎年信
「山崎年信」は、1857年(安政4年)、江戸・千住(現在の東京都足立区)で生まれました。本名は山崎忠二で、通称は信次郎、または徳次郎。
父は、青物屋(八百屋)をしていましたが、家が貧しかったため、提灯屋(ちょうちんや)へ奉公に出されました。
このとき、山崎年信が神社に奉納する行燈(あんどん)に描いた絵が評判となり、1870年(明治3年)の13歳のときに、浮世絵師「月岡芳年」の目に留まって、入門。とても熱心に絵を学び、月岡芳年も可愛がり、「年信」の画号(画家が付ける名前)を貰ったのです。
山崎年信が頭角を現したのは、入門7年目の20歳のとき。1877年(明治10年)に「西南戦争」が起こると、その情勢を知りたいと多くの人が「錦絵新聞」(にしきえしんぶん)を買い求めました。錦絵新聞とは、記事を錦絵(にしきえ)で表した物。まだ写真がなかった時代、情報を視覚的に知りたい人々の要求に応えて、錦絵新聞が大ヒット。師・月岡芳年のもとには、錦絵の注文がどんどん入り、山崎年信にも制作のチャンスがめぐって来ます。
山崎年信は、見事に西南戦争の絵を描き、次々に依頼が舞い込んで、その数は約30点。芳年門下の鬼才、天才と高く評価され、関西の「魁新聞」に挿絵、「日本略史」、「大日本優名鏡」などのシリーズ絵も手掛け、「芳年四天王」のひとりと呼ばれるほどになったのです。
しかし、若くして名声を得たのが良くなかったのか、23歳の1880年(明治13年)頃から酒色に溺れ、四六時中酒を好み、酔っ払って仕事にも支障をきたすようになっていきます。
さらに、1882年(明治15年)、山崎年信は大事件を起こしてしまいます。なんと、師・月岡芳年の書き溜めた漫画草稿40点を盗んで、逃亡したのです。月岡芳年は「いろは新聞」の広告に、山崎年信の捜索願いを出稿するほど大騒動。この結果、山崎年信と漫画草稿は無事に見つかったのですが、これを機に山崎年信は月岡芳年のもとを去ることになりました。
しかし、1883年(明治16年)、高知県に赴いた山崎年信は「土陽新聞」(どようしんぶん)の専属絵師となって再起します。「坂崎紫瀾」(さかざきしらん)著作の連載小説、坂本龍馬を主人公とした「汗血千里の駒」(かんけつせんりのこま)の挿絵を描いて大人気となったのです。
ところが著者・坂崎紫瀾は、演壇での発言が不敬罪だと投獄されて連載休止。これにより、山崎年信の仕事もなくなり、1885年(明治18年)に高知県を去り、京都へ向かうことになりました。そこで、「日出新聞」(ひのでしんぶん)に挿絵を描きますが、今度は人気を得られませんでした。そして肺炎を患い、1886年(明治19年)に京都で死去。享年29でした。
「佐土原城進撃之図」(さどわらじょうしんげきのず)は、1877年(明治10年)に起きた西南戦争の終盤、「佐土原城の戦い」の様子をタイムリーに描いた錦絵です。
西南戦争とは、「西郷隆盛」らの薩摩士族が起こした反乱のこと。画面中央で馬に乗っているのが西郷隆盛。その周りにいるのが「有馬藤太」(ありまとうた)や「逸見十郎太」(へんみじゅうろうた)などの薩摩士族です。西郷隆盛がとても落ち着いていて、薩摩士族軍が優勢のよう。
しかし史実としては、薩摩士族軍は「田原坂の戦い」で敗れ、この佐土原城(現在の宮崎県宮崎市)でも敗れました。薩摩士族軍は鹿児島まで退却することになり、西郷隆盛が自決することで収束したのです。
したがって、この戦争絵は事実を描写した物ではありません。山崎年信は現地には赴かず、想像で描いた絵と言えます。新聞錦絵は、事実を正確に伝えるよりも、制作者や読者の願望を込めて描かれることもあったのです。
「日本略史図 日本武尊」(にほんりゃくしず やまとたけるのみこと)は、山崎年信が、1879年(明治12年)に日本史上の英雄を描いたシリーズ絵「日本略史図」の中の1枚です。
「日本武尊」(やまとたけるのみこと)と言えば、「古事記」、「日本書紀」に登場する英雄。景行天皇(けいこうてんのう)の皇子で、叔母の「倭姫命」(やまとひめのみこと)から「草薙剣」(くさなぎのつるぎ)を授かり、東国の蝦夷(えみし)を平定した話が有名です。
本浮世絵は、日本武尊が幼名を「小碓命」(おうすのみこと)と名乗っていたときのこと。小碓命が九州征伐に赴き、「熊襲」(くまそ:大和朝廷に属さなかった種族)の首長「川上梟帥」(かわかみのたける)を直刀(ちょくとう)で討つ場面です。川上梟帥は死ぬ間際に、小碓命の強さを讃え、「日本武尊」という名前を授けたと伝えられています。
本浮世絵は、斬殺場面でありながらも、山崎年信のタッチが繊細で色使いも優雅。日本の神話を讃える、品格を感じる1枚です。
「太閤実記雪月花之内矢矧之月」(たいこうじつきせつげっかのうちやはぎのつき)に描かれているのは、「日吉丸」(ひよしまる:のちの豊臣秀吉)と「蜂須賀小六」(はちすかころく)が、はじめて出会う場面です。
満月が輝く夜、矢作橋(現在の愛知県岡崎市)の橋の途中で、日吉丸が柱にもたれて気持ち良さそうに寝ている幻想的で美しい1枚。蜂須賀小六の家臣「稲田大炊」(いなだおおいのすけ)達が日吉丸の顔を覗き込んでいます。
これは、「絵本太閤記」(えほんたいこうき)に書かれたエピソード。このあと蜂須賀小六は、邪魔だと日吉丸を蹴り飛ばし通り過ぎようとします。これに対して、起きた日吉丸は無礼だと猛烈に怒り抗議したところ、度胸があると見込まれて子分にしてもらえるのです。のちに、この立場は逆転し、蜂須賀小六は豊臣秀吉の重臣となりました。
本浮世絵は、1879年(明治12年)に発表された作品。師・月岡芳年は、6年後の1885~1891年(明治18~24年)にかけて、この絵をオマージュしたかのような美しい「月」をテーマとした「月百姿」(つきひゃくし)というシリーズ絵を発表しています。
月岡芳年は、山崎年信が不運にも早世したのは、自分が手を差し伸べられなかったからだと自分を責めていたとのこと。もしかすると、月百姿はこの絵の日吉丸と蜂須賀小六と同様に、師と弟子の立場が逆転し、月岡芳年が山崎年信に感化されて制作されたのかもしれません。