江戸時代を起源に、庶民が楽しめる絵画として広まった浮世絵。江戸時代中期に創始された多色刷りの浮世絵「錦絵」は、江戸時代末期に技巧の最盛期を迎えます。明治時代に入ると西洋絵具を用いたことで、より色鮮やかな作品となって人々の目を楽しませました。今回ご紹介するのは、明治時代の浮世絵師「歌川豊宣」(うたがわとよのぶ)が手掛けた連作「新撰太閤記」(しんせんたいこうき)。鮮明な色使いが美しい錦絵で、織豊時代(しょくほうじだい:織田信長と豊臣秀吉が天下を掌握していた時代)を中心に戦国の世の名場面を描いていた連作で、歌川豊宣の代表作と称されています。
新撰太閤記 秀吉
「太閤記」とは、「豊臣秀吉」の活躍を描いた伝記物語です。「歌川豊宣」(うたがわとよのぶ)が手掛けた「新選太閤記」(しんせんたいこうき)では、豊臣秀吉はもちろん「織田信長」を始め、豊臣秀吉と深くかかわった戦国武将も描かれています。
大版2枚続きをベースに、豊臣秀吉に関連する全50にも及ぶ歴史的名場面を連作で刊行しました。各図には、作品名と描いた場面の物語、格言を記入。高いデッサン力と細部まで丁寧に描かれた錦絵は、どの作品も臨場感に溢れ、歌川豊宣の天賦の才を感じさせます。
江戸時代に庶民の娯楽のひとつだった浮世絵は、刊行前に幕府によって政治批判や奢侈(しゃし:身分を超えた贅沢)にあたらないか、風紀・風俗の乱れに繋がらないかなど、厳しい検閲がありました。
なかでも、徳川家の威信が揺らぐという観点から、1573年(天正元年)以降、つまり織田信長以降の武将を題材にすることはご法度。1804年(文化元年)には、豊臣秀吉の活躍を描いた「絵本太閤記」の絵師が、江戸幕府によって処罰されています。
そこで、江戸時代に描かれた武者浮世絵や合戦浮世絵の多くは、太閤記を「太平記」と名付けるなど、漢字の当て字や読み仮名を変えた「偽名絵」(にせなえ)として描かれたのです。
しかし、明治時代に入り、浮世絵は江戸時代の禁制から解放されました。1883年(明治16年)に刊行された新撰太閤記は、政府を恐れることなく、自由に戦国時代の武将が活躍した歴史的名場面を描いているのです。また、江戸時代よりも鮮やかさを増した「錦絵」で仕上げられている点も、明治時代に描かれたことを象徴しています。
新撰太閤記 本能寺
1582年(天正10年)に起きた歴史的大事件「本能寺の変」。尾張(現在の愛知県)の一大名から大躍進し、天下統一目前であった織田信長を、家臣「明智光秀」(あけちみつひで)が夜襲した、史上最後の下克上とも言われています。
本武者浮世絵で描かれたのは、織田信長の小姓(こしょう:身分の高い人に仕えた少年)だった「森蘭丸」(もりらんまる)と、攻め入ろうとする明智側の「安田国継」(やすだくにつぐ)の一騎打ち。森蘭丸が勢い良く槍(やり)を突いた一瞬に、安田国継はその槍を取り、森蘭丸を引き落とそうとしている様が巧みに表現されています。
右手奥では、織田信長の側室「阿能局」(おのうのつぼね)が薙刀(なぎなた)で奮闘。まるで映画のワンシーンのように躍動感漲る作品に仕上がっています。
新撰太閤記 清水宗治切腹之図
1582年(天正10年)、織田信長の命を受けた豊臣秀吉は、「毛利輝元」(もうりてるもと)が統べる中国地方攻略に向けて「備中高松城」(現在の岡山県岡山市)を攻撃。この「備中高松城の戦い」において、豊臣秀吉は城の周囲を堤防で囲み、城を水没させる「水攻め」と呼ばれる奇策で勝利したことで知られています。
城主の「清水宗治」(しみずむねはる)は、和解の条件として提示された自身の切腹を城兵の助命と引き換えに承諾。自身の命と引き換えに家臣を守った清水宗治の決断をきっかけに、切腹が武士の美学として浸透するようになったとも言われています。
本合戦浮世絵では、水没した城内に浮かぶ小舟の上で、清水宗治が切腹の前に「誓願寺」(せいがんじ)という謡曲を舞う姿が描かれました。
新撰太閤記 九州征伐
本合戦浮世絵は、織田信長亡きあと、天下統一を目指した豊臣秀吉による「九州平定」(別称:九州征伐)の一場面を描いた作品です。
1587年(天正15年)、豊臣軍は薩摩国(現在の鹿児島県西部)を中心に覇権を広げていた島津軍とぶつかります。本合戦浮世絵では、豊臣秀吉の重臣で、槍の名手であった「加藤清正」(かとうきよまさ)が、「島津義弘」(しまづよしひろ)の四天王で島津軍随一の猛将と呼ばれた「新納忠元」(にいろただもと)を、今まさに討ち取らんとする瞬間が描かれています。
この一騎打ちでは、加藤清正の攻撃を避けた新納忠元は勢い余って落馬してしまいます。しかし、加藤清正は落馬したことを幸いと討ち取るのは加藤家の恥だと叫び、止めを刺さなかったと伝わっているのです。
勇猛果敢な武将として歴史に名を遺す2人の武将による、鬼気迫る一騎打ちの様子が見事に表現された作品です。
新撰太閤記 奥方於八重
新撰太閤記で描かれたのは、猛々しい戦のシーンばかりではありません。「新選太閤記 奥方於八重」では、寛ぐ豊臣秀吉が描かれています。
実は、越後国(現在の佐渡島を除く新潟県)を統べる「上杉謙信」(うえすぎけんしん)討伐に向けた、1576年(天正4年)の「手取川の戦い」において、織田信長は「柴田勝家」(しばたかついえ)と豊臣秀吉に出陣するよう命を下していました。
その道中、豊臣秀吉は柴田勝家と仲違いし、織田信長の命を無視して「安土城」(現在の滋賀県近江八幡市)に帰還。結果、織田軍は惨敗し、織田信長は豊臣秀吉に激怒します。しかし、豊臣秀吉は織田信長の怒りを気にすることなく、昼夜宴を繰り広げたと言うのです。
図の右手には、小姓とともに正室「ねね」の舞を見ながら、のんびり過ごす豊臣秀吉が描かれています。織田信長をも恐れない、豊臣秀吉の大胆さ、懐の大きさが表現された作品と言えるでしょう。
演説家百詠選
歌川豊宣は、1859年(安政6年)、浮世絵師の父「歌川国久」(うたがわくにひさ)の長男として生まれました。
本名は勝田金太郎、住まいは本所亀戸町(現在の東京都江東区亀戸)付近だったと言われています。そして、歌川豊宣の祖父は、江戸時代後期に活躍した天才浮世絵師「歌川国貞」(うたがわくにさだ)。歌川国貞は、幕末期に最も人気のあった浮世絵師で、特に役者絵や美人画で高い評価を得た人物です。
歌川国貞の孫だったこともあり、歌川豊宣は、歌川国貞と同じ「香蝶楼」、「一陽斎」などの画号も用いています。画風は、伝統的な歌川派を踏襲しながらも西洋画風の遠近法を多用。人物や動物の描写についても江戸時代とは異なり、より写実性が加わった画風で、役者絵や武者絵、和歌集の挿絵などを手掛けました。
なかでも、1881年(明治14年)刊行の「近世文武名誉百人首」や、1882年(明治15年)刊行の「愛国民権演説家百詠選」の挿絵が有名です。
明治時代に入ると、西洋の印刷機導入などもあり、浮世絵自体の需要が激減していきます。歌川豊宣は「改進新聞」(かいしんしんぶん)の時事的ニュースを伝える挿絵を手掛けるなど、時代に即した作品を遺しました。
しかし、1886年(明治19年)の8月、28歳で夭折。浮世絵師としての活動期間も短いこともあり、知名度はあまり高くありません。しかし、正当な歌川派を継ぐ新たな世代として、明治時代を代表する浮世絵師として成長したであろうことが予見できる優れた作品を遺しています。
歌川豊宣 作「俱利伽羅谷大合戦図」
確かな画力、そして細部まで精緻に描かれた歌川豊宣の錦絵は、画壇でも高い評価を得ています。例えば、1884年(明治17年)、明治政府の主催により開かれた展覧会「内国絵画共進会」(ないこくかいがきょうしんかい)では、「源義仲八幡宮願書之図」を出品し、銅賞を受賞しました。
図は、平安時代末期の「倶利伽羅峠の戦い」(くりからとうげのたたかい)を描いた作品です。出品作と同様に「源平合戦」(源氏と平氏を主勢力とした内乱)を題材にしており、歌川豊宣が武者絵や合戦絵に力を入れていたことを示していると言えます。
【国立国会図書館ウェブサイトより】
- 演説家百詠選