「武者絵の国芳」と称されるほど、武者絵で人気を博した奇才「歌川国芳」(うたがわくによし)。江戸っ子気質で、親分肌だった歌川国芳のもとには、100人を超える門弟がいたと言われています。「歌川芳艶」(うたがわよしつや)もそのひとりですが、実はその名はあまり知られていません。しかし、「川中島大合戦組討尽」(かわなかじまだいがっせんくみうちづくし)に代表されるように、歌川国芳の表現をしっかりと踏襲しながらも、ときに師を凌ぐほどの迫力に溢れた武者絵を多数残しました。12枚の連作・川中島大合戦組討尽、そして歌川芳艶についてご紹介します。
歴史上の英雄や物語の豪傑を描いた浮世絵である「武者絵」は、江戸時代において浮世絵の人気ジャンルのひとつとして確立しました。武者絵の代表的な浮世絵師としては、現代においても国内外で高い評価を得ている「歌川国芳」(うたがわくによし)や、その弟子「月岡芳年」(つきおかよしとし)などが良く知られています。
1857年(安政4年)に版行された「川中島大合戦組討尽」(かわなかじまだいがっせんくみうちづくし)の作者「歌川芳艶」(うたがわよしつや)もまた、歌川国芳に学び、武者絵で傑作を残した浮世絵師です。
たくさんの弟子の中でも、しっかりと歌川国芳の武者絵を踏襲し、浮世絵から今にも飛び出さんばかりの豪快で迫力満点の武者絵を描いています。
川中島大合戦組討尽は、1553年(天文22年)~1564年(永禄7年)の12年間で5回勃発した「川中島の戦い」を主題とした12枚の揃い物です。
川中島の戦いは、甲斐国(現在の山梨県)の「武田信玄」と、越後国(現在の佐渡ケ島を除く新潟県)の「上杉謙信」が、北信濃(現在の長野県)の覇権を巡って争った戦いですが、結局のところ勝敗は付かず、戦国史上最も謎が残る戦いとも言われています。
歌川芳艶の他にも、歌川国芳はもちろん「歌川国貞」(うたがわくにさだ)や「歌川広重」(うたがわひろしげ)なども手掛けており、江戸時代の武者絵における人気テーマでもありました。
歌川芳艶の川中島大合戦組討尽の魅力は、何と言っても戦場でスケッチしたかのような躍動感漲る画風で、1図に武将2人の一騎打ちを描いている点。甲冑を身に着けた各武将が複雑に絡み合う構図は、ときには画面からはみ出すほど豪快に描かれており、歌川国芳譲りの見事な武者絵と言えます。全12図の中から、圧巻の3図を見てみましょう。
本武者浮世絵「川中島大合戦組討尽 松本杢助 穴山梅雪」は、川中島大合戦組討尽の12図中6図目にあたる作品。武田軍の「穴山梅雪」(あなやまばいせつ)と、上杉軍の「松本杢助」(まつもともくすけ)の取り組みが描かれています。
穴山梅雪は、「穴山信君」(あなやまのぶきみ)の名でも知られる武将で、母は武田信玄の姉「南松院」(なんしょういん)、妻は武田信玄の娘「見松院」(けんしょういん)。川中島の戦いでは、武田信玄の本陣を守るほど信頼されていた人物でした。
一方の松本杢助は、上杉謙信の猛臣で、砲術家として知られる武将です。
黒煙が立ち込める中、2人の武将が取り組む本武者浮世絵では、必死の形相を浮かべる穴山梅雪が青白く描かれています。実は穴山梅雪は、のちに武田氏を裏切って離反し、一揆衆に殺害されるという末路を追っているのです。
川中島の戦いでは武田軍として戦った穴山梅雪ではありますが、まるで裏切り者であることを示しているかのように、青白く描かれている点も本武者浮世絵の面白さと言えるでしょう。
全12図の8図目にあたる本武者浮世絵「川中島大合戦組討尽 帆品弾正昌忠 高松内膳」は、武田軍の「帆品弾正昌忠」(ほしなだんじょうまさただ)と上杉軍の「高松内膳」(たかまつないぜん)の取り組みを描いています。
帆品弾正昌忠とは、武田二十四将のひとり「保科正俊」(ほしなまさとし)のこと。保科正俊は「高遠城」(たかとおじょう:長野県伊那市)城主で、「槍弾正」(やりだんじょう)と称されるほど槍(やり)の名手としても知られています。
高松内膳は、上杉軍として参戦したどの武将を指しているのか判然としませんが、歌川芳艶の3枚続の武者絵「川中島大合戦越後方二十四性揃」にも登場している武将です。
本武者浮世絵では、刀を振りかざした保科正俊が高松内膳の首を取ろうと押さえ付けている場面が描かれています。倒れた馬標(うまじるし)なのか、何本もの赤い布が縦横無尽に絡み合い、2人の戦いの迫力と躍動感をより一層盛り上げています。
川中島大合戦組討尽の12図中、12図目にあたる本武者浮世絵「川中島大合戦組討尽 高坂弾正忠 本庄美作守」で描かれたのは、武田軍の「高坂弾正忠」(こうさかだんじょうのちゅう)と、上杉軍の「本庄美作守」(ほんじょうみまさかのもり)の取り組みです。
高坂弾正忠は、武田氏を支えた「武田四天王」のひとり「高坂昌信」(こうさかまさのぶ)のこと。戦国最強とも称された武田氏の戦略や戦術を記した「甲陽軍鑑」(こうようぐんかん)の口述の著者と言われ、智将としても知られた人物です。特に撤退戦に長け、「逃げの弾正」とも称されました。川中島の戦いでは、最前線「海津城」(かいづじょう/のちの松代城:長野県長野市)城主を務めました。
本庄美作守は、上杉謙信を幼少時から支えた重臣「本庄慶秀/本庄実乃」(ほんじょうよしひで/ほんじょうさねより)のこと。上杉謙信の養子「上杉景虎」(うえすぎかげとら)の軍学の師とも言われています。
なぜこの2人が対戦しているかは不明ですが、本庄慶秀(本庄実乃)の顔が川に押し付けられ、詳細が見えないことから推測すると、本当は越前守「本庄繁長」(ほんじょうしげなが)を描いたのではないでしょうか。
本庄繁長は上杉家の重臣でしたが、上杉謙信に謀反を企て「本庄繁長の乱」を起こしており、上杉氏に恥をかかせた人物。まさに川に顔を汚す表現から、本庄慶秀(本庄実乃)ではなく、本庄繁長のことではないかと推測できるのです。
歌川芳艶は、1822年(文政5年)に江戸日本橋(現在の東京都中央区日本橋)の駕籠屋に生まれ、名を「甲胡万吉」と言いました。15歳で歌川国芳に入門し、17歳の頃に歌川国芳より「芳艶」(よしつや)という名を与えられ、画号に「一栄斎芳艶」や「一英斎芳艶」と名乗っています。
画壇へのデビューは、天保年間末頃。1842年(天保13年)には、「美図垣笑顔」(みずがきえがお)作の小説「花紅葉錦伊達傘」(はなもみじにしきのだてがさ)で、挿絵を担当したことが確認されています。
その後も、草双紙や歌舞伎で人気の「児雷也」(じらいや)を描き、評判になりました。
また、江戸時代に男性の髪を結ったり、髭や月代(さかやき)などを剃ったりする髪結床(かみゆいどこ)に掛かった長暖簾の武者絵は、そのほとんどが歌川芳艶の作であったとも言われているのです。勇壮な武者絵は評判となり、入れ墨の下絵などでも人気を博します。
歌川国芳の門弟の中でも、歌川国芳譲りの躍動感溢れる武者絵を描き、ときに色の鮮やかさなどでは師の歌川国芳を凌ぐ作品を遺したとも評されました。しかし、ほとんどの浮世絵師がそうであったように、歌川芳艶も才能はありながら、後世に高い名を残すほど一世を風靡することはなかったと言えます。
自身も門弟を取り、絵筆を握り続けますが、1866年(慶応2年)に45歳で没しました。
歌川芳艶 作「源平盛衰記」
川中島大合戦組討尽における揃い物でも実力を発揮している歌川芳艶ですが、師匠の歌川国芳がそうであったように、3枚続きを1枚の大きなキャンバスに見立てた作品で素晴らしい作品を遺しています。
歌川芳艶が描いた本武者浮世絵「源平盛衰記」では、平安時代末期の武将「平清盛」(たいらのきよもり)を主役にした、鎌倉時代の軍記物語「源平盛衰記」(げんぺいせいすいき)の一場面を描いた作品です。平清盛の正式な家紋「蝶紋」(ちょうもん)が掲げられ、龍の飾りが付いた大きな船に平家一門が乗り合わせています。
屋形の一等席に座っているのは、出家して剃髪(ていはつ)した平清盛。船頭は平清盛の4男「平知盛」(たいらのとももり)、中央には平家一の猛者とも呼ばれた「平教経」(たいらののりつね)などが描かれています。細部まで丁寧に書き込まれ、色味も鮮やか。波しぶきが立つ海に勢い良く船が走る様子が見事に表現されています。