- 合戦浮世絵
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うたがわよしつや さく「かわなかじまだいがっせんくみうちづくし はらみののにゅうどう ながおのぶかげ」 歌川芳艶 作「川中島大合戦組討尽 原美濃入道 長尾信景」 /ホームメイト

1857年(安政4年)に発表された「川中島大合戦組討尽 一」(全12枚)の1枚目にあたる浮世絵です。「歌川芳艶」(うたがわよしつや)が描いた「川中島大合戦組討尽」は、武田軍と上杉軍を代表する猛者が「組討」(くみうち:日本刀や槍を使わず腕力で戦う戦法)をしていますが、どの対戦も史実に基づいたものではないというところが特徴です。
本武将浮世絵は、武田軍「原美濃入道」(はらみののにゅうどう)に対して、蛇の前立の兜を付けた勇ましい「長尾信景」が頭突きをくらわせているところ。 「原美濃入道」とは「原虎胤」(はらとらたね)のこと。「武田信虎」(たけだのぶとら)、「武田信玄」(たけだしんげん)親子に仕え、武田五名臣、武田二十四将のひとりにも選ばれました。武勇も名高く「鬼美濃」(おにみの)、「夜叉美濃」(やしゃみの)と呼ばれて恐れられた人物です。
一方、「長尾信景」という名前の人物は実在しないので、「長尾景信」(ながおかげのぶ)の書き間違いではないかと思われます。長尾景信ならば、「上杉謙信」の叔父。上杉謙信の養子「上杉景勝」(うえすぎかげかつ)、「山浦景国」(やまうらかげくに)に次ぐ補佐役として、謙信軍を支えました。上杉謙信の死後は、「上杉景虎」(うえすぎかげとら)を支持し、1578年(天正6年)「居多ヶ浜の戦い」(こたがはまのたたかい)で戦死しています。
なお、原美濃入道は、1561年(永禄4年)の戦いで負傷しており、1553年(天文22年)~1564年(永禄7年)に起きた「川中島の戦い」には、史実として参戦していません。
